新宿JAM
新宿JAMが年内で閉店するそうだ。
ご多分漏れず自分にとってもこのライブハウスは母校のようなもので、閉店を知った時は何ともいえぬ寂寥の念がこみあげ絶句してしまった。ここで自分の音楽生活が始まったといても過言ではないわけでして。
20歳そこそこ「阿佐ヶ谷ハッピーズ」という名で何となく活動を始めた1990年初頭、後にハッピーズのベーシストとなるコオ君の仕切りのイベントに出演したのが多分最初のJAM体験。(コオ君はその頃「レモンクリーム」というガレージパンクバンドをやっていた。)
後にコオ君が正式加入し、JAMにブッキングしてもらおうと昼の部のライブオーディションに参加、ライブ後は当時店長の高野さんに「カバーやるならもっとわかりやすい曲がいいよ」なんて言われながらも無事JAMから定期的にライブに誘われるようになる。
右も左もわからないままライブを続けてたらヘアのさとうさんに誘われ、バンド名をハッピーズと改名し、いつしか一緒にイベントやライブをやるようになった。さとうさんプロデュースで93年にリリースされたハッピーズ初のシングル、翌年のミニアルバムを録音したのも新宿JAMだった。
その後自分たち主催で始めたのが、VOX Wah Wah Pedal(後のEVIL HOO DOO、学校で同期だったオガワ君がドラム担当だった)とザ・ヘアとハッピーズの3バンドを軸にした「エレクトリック・パブ」(通称エレパブ)とうイベントだったのだけど、これはいつも沢山お客さんが集まってくれて毎晩最高だった。フライヤーを作ったり、Tシャツを作ったり、ともかく毎回「何かが作られてる」ようなドキドキに満ちていて、ここで僕らはずいぶんとバンドへの意識が変わったように思う。
余談だが、イベント名は他にも候補があって、最後に残ったのが「プレイ・ガール」と「エレクトリック・パブ」だった。今思うとエレパブでほんと良かった。
余談だが、イベント名は他にも候補があって、最後に残ったのが「プレイ・ガール」と「エレクトリック・パブ」だった。今思うとエレパブでほんと良かった。
兎にも角にもJAMにまつわる思い出は山ほどあるけれど、思い出は麻薬のように甘美でこのままでは中毒死してしまうので一先ず中断。
3年前にビフォアーズのゲストシンガーで歌ったのが確か最後のジャムスタ、無くなる前にもう一度出たいなぁと切望中。
できればイーストウッズで。
できればイーストウッズで。
by joenakamura
| 2017-08-03 11:03
| 考え中